連載『世界は開いているから仕方がない』   全国脊髄損傷者連合会発行 脊損ニュース 2022年1月号・2月号・3月号

2015年春、桜のころ。事故から7か月ほど。埼玉県所沢市にある国立リハビリテーション病院にて。久しぶりに見る日本の桜、車イスの上からとなってしまったのでした。今この写真を見ると、この当時はまだ随分とごっつくでっかい車イスを使っているなぁという感想です。このときは、ようやく付き添いと共に病院棟の外にでることが許可されたころだと思い出します。この後、車イスはよりコンパクトで機動性があるものに変わっていきます。

 事故等で脊髄を損傷する人は、日本では年間5千人程度と聞いたことがあります。けして少ない数ではありません。そんな脊損者たちへの情報提供、福利厚生向上、バリアフリー推進、各省庁交渉及び民間企業等への要請活動などを行う組織に、全国脊髄損傷者連合会(公益社団法人)があります。

(公社)全国脊髄損傷者連合会のホームページへようこそ! (zensekiren.jp)

 ご縁があって、私はこの全脊連の埼玉県支部の会員です。そして、2021年3月からこの全脊連が毎月発行している【脊損ニュース】という会報誌に『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで連載を書いています。今月で連載開始からちょうど2年(全24回)が経ちました。備忘録として、当ブログにその連載記事を順次掲載いたします(全脊連からは、快く了解をいただきました)。今回は連載第10回から第12回までです。

 ちなみに、連載では海外での仕事で撮った子どもたちの写真を本文とは関係なく掲載しました。少々固い傾向のある本文にほんの少しでも潤いをつけ足せたらという意図だったのですけれど、さて、効果はどうだったでしょうか。

連載第10回 (2022年1月号)
治りたいか(2) 「治らない人たち」もいる障害者世界

 中途障害者にとって、障害を得る前の基準に戻る、つまり障害を治療して、健常者に近づくのは、大切な希望でもある。「以前と同じように、歩きたい」「もう一度ゴルフをしたい」、それは素朴な思いで、当然です。

 一方で、世の中には治ることが難しい障害もある。そんな障害を持つ人たちにとっては、「元に戻る」という夢は絶望と紙一重です。 

 さらには、生まれたときから障害と共に生きている障害者もいます。そんな先天性の障害者の中には、幼いときから健常者に近づくことを「強制」されて苦しんだ人もいる。先天性の障害を持つ人たちにとって、障害を否定されることは、まるで自分自身を丸ごと否定されるようなものだったりする。

 中途障害者の視線は、ついつい健常者のほうに向かいます。「治らない」障害、「生まれつきの」障害者がいることにはなかなか意識は向きません。

 健常者と障害者と書けば、両者の間に境界があるようだけれど、実は障害者世界の中にもいくつもの「階層」を分ける境界があるみたい。

 20代後半で青年海外協力隊に参加して、ケニアの寒村の中等学校で理科を教えていたときのこと。当時、ケニアには常時合計で50名ほどの協力隊員がいて、いろいろな職場で働いていました。
 そんな仲間たちとときどき集まって遊びました。仲間(日本からきた協力隊員仲間)たちと町を歩いていると、現地の子どもたちが私たちをからかって「チナ!チナ!」と声をかけて、カンフーの真似をする。中にはこっちに向かって小石を投げる悪童もいたのです。異邦人に対する、子どもの他愛のない悪ふざけです。彼らからすれば、東洋人はみんなチナ、China、つまり中国人。当時、有名な東洋人といえばブルースリー、カンフー映画のアクションスターでした。

 そんな子どもたちに対して「俺は、中国人じゃないぞ!」と血相を代えて怒る仲間もいました。「チナ!」と呼ばれるのが、心底頭にくるらしかったのです。

 でもさぁ、そんなに怒ることないじゃない。東アジアの東洋人ならチナ(中国人)、まぁ、そんなもんじゃない? 私はそんなふうに思ってました。

 障害者の中の境界も、あのときのチナとジャポンの差なのかなぁと思います。傍から見れば大した違いじゃないけれど、当事者の中には、その違いを明確にしておきたい思いが生まれるときがある。「私は、あの人たちとは違う、いっしょにするな」という自意識は、少数者同士でこそ、ことさら増幅されがちです。

 障害者の中で分類すれば、 私はかなりの強者だと思います。歩けないことは、車イスを見ればすぐにわかる。さらに私は発信力があり、経済的な不安も(労災のおかげで)少ない。サポートしてくれる人も、いる。

 日本国籍であることも、強者である一因です。多くの途上国では、障害者の置かれた環境は、まだとても過酷です。金銭的にも、肉体的にも、精神的にも、厳しい生活を送る障害者は少なくない。公的支援の制度も、整っていない。それと比較すれば、私はラッキー。そんな強者として、障害者世界のヒエラルキーにはどうしても敏感になります。強者なのも単なる偶然の取り合わせ。どこか、後ろめたい気持ちもわいてきます。そのせいか、障害の世界を、簡単に去る気には私はなれない。実際、この障害、治る可能性もほぼない。年齢ももう若くない(57歳)。なら、腹をくくって、このままでいいや、そしてこの障害ととことんつきあおうと思うのです。

カンボジアの首都プノンペンにある、中華系学校、大規模校です、の生徒たち。カンボジア語と共に中国語も学んでいる。(2018年)

連載第11回 (2022年2月号)
治りたいか(3) 障害という人生のスパイス

 「治らなくてもいい」という自分の気持を前々回、前回の連載で書いてきました。

 読者諸氏には、当然、「私はやっぱり治りたいなぁ」という気持ちの人も多いはず。うん、治るならそれがいいですよ。ただ、うまい具合に回復されても、障害者だったときの経験を大切にしてください、とはちょっとお願いしちゃいたいなぁ。

 健常者から突然障害者になってしまったときの辛い気持ち、直面したさまざまな社会的障害、将来への不安、それは過去のものではなく、この社会でいつでも誰かが感じているのだという実感、それを忘れないでいて欲しいのです。

 身体でも、知的でも、精神でも、どこかで障害を抱えた人を見かけたら、彼らに寄り添って欲しいのです。ことさら声をかけてということではない。でも、困っているのなら助けてあげて欲しいのです。仲間として。

 50歳で事故に遭うまで、私は途上国の教育支援という仕事をしていました。実際に途上国に飛び込んで、そこで現地の人たちと一緒に働いてきました。

 大事にしていたのは、現地の人たちにとって何がリアリティ(世界観、現実観)なのかということです。社会の多数派強者(日本人であり、健常者であり、男性であり・・・・)だった私のリアリティではなく、彼らの目で世界をみつめてみるということ。もちろん、それは実際にはできません。どんなに頑張っても、自分というフィルターを通してしか世界は理解できない。でも、見ようとすることが大切だと思って、目をこらし、耳を澄ませた。鼻もピクピクさせた。支援される側、支援する側のそれぞれのリアリティから、どうやって共通する未来のリアリティに落とし込んでいくか。それがとても面白かった。(それだって、どうしたって、それは強者のエエカッコシイだ、という声からは自由にはなれないのですけれどね。)

 障害を得て、今度は支援される側にまわって感じたのは、弱者当事者であることの強みです。支援される側なしに、支援する側は存在できません。どうしたって支援される側が出発点なんです。
 だから、思いっきり自分主体で考えられる。またそれが許される。何かを語れば、それは当事者語りになる。状況次第で、障害を得た弱者の立場は、生きる上での武器になり得る。
 もちろんそれは、「支援されて当然!」ということとは違います。どう生きるかを主体的に考えやすいってことだと思います。おそらく健常者よりも障害者のほうが自分を深く見つめる機会は多いのではないでしょうか。それこそ「なんのために生きるのか」と考える。自分の生きる意味とか、価値とかを真剣に振り返る。それは生のひとつの醍醐味です。

 その点でも、障害という「アクセント」あるいは「スパイス」は魅力的ですらありますよ。もちろん不便なのは辛い、痛いのも楽しくない。でも「楽しいこと」ってばかりじゃ済まないのが、人生でしょう? 「楽しくなくちゃ生きる意味はない」なんて言う人もいるけれど、苦しみがあるから楽しみもある。(苦しみを買ってまでしろ!とはけっしておもわないですけれど)。その点でも、障害者は真の楽しみ、例え小さくとも、を見つけられる権利を持った人でもあるかもしれない。

 その上でやっぱり書きます。生きることに、意味、価値、役割、そんなものは人生に必須じゃありません。もちろん、生きる意味、価値、役割を見つけられれば、それはラッキー。嬉しいですよね。でも、見つからなくてもいい。気にしないで。死ぬまでじっくり生きましょうよ。

 さらに、他者の生を語るときに、意味、価値、役割を持ち込むのはエチケット違反です。そんなものなくても、誰でも死ぬまで生きるのです。だから、一緒に生きるしかない。 障害者も、健常者も。 あなたと私も。

ルワンダの小学校で。だんご3兄弟のような息の合いっぷり。(2013年)

連載第12回 (2022年3月号)
声を上げること(1) それは障害者と健常者の間に溝をつくることなのか

 もう1年ほど前のこと、ある車イス者がJRのバリアフリーが整備されていない無人駅で降車利用しようとして、JRの対応の不備をインターネットで公表しました。彼女によれば、乗車駅で無人駅での降車を願い出たところ、対応できないと回答されたとのこと。彼女は重さ100kgほどする電動車イスを使っていて、サポートなしに無人駅を利用できない。彼女の粘り強い交渉によって、そのときはあくまで例外的な対応として、近隣の主要駅から4人のJRスタッフが彼女に同行して、その電動車イスを支えて階段を上下したとのことでした。

 彼女のJRへの抗議(最初に支援をお願いした際に、対応できないと支援を断られたことに対する抗議です)に対して世間から「クレイマー(文句をつける人)」と大きな批判の声があがりました。「なぜ当日までJRに知らせなかったのか?」、「最終的に対応してくれたJRスタッフへの感謝の意が見られない」、「助けてもらって当然という態度」等々の声が彼女に向けらたのです。また、彼女を擁護したコメントに対しても、悪意のあるコメントが集まりました。
 ある調査では、彼女の「JRの対応を問題視する態度」に共感できないとする回答が大多数を占めた、という記事もありました。  

 「障害者ならば、もっと従順であるべき」「おとなしくしていなさい」というような声がこの社会には多いのだなぁ。特筆したいのは、障害者の中にも、彼女の抗議を快く思わない人もいるという点です。「障害者みんなが彼女のようなクレイマーのように思われるのは迷惑だ」というような障害者からの声もあったのです。

 こんな意見もみつけました。「権利を主張して勝ち取るという行為は、もはや令和の時代に合わない、今はもっと協調してことにあたる時代だ」。やはり障害者の意見でした。

 この意見を書いた方は脳性麻痺者による「青い芝の会」(注)の1970年代の川崎バス闘争などが、現在の公共交通への車イス者の使用の道を開いたことを知っています。でも、あの「闘争」というやり方は、もう今の時代に合わないと言うのです。社会に批判を投げ込むことは、障害者と健常者の間に溝を作ることになるという。今は、もっと柔らかに話し合う時代だと。

 そんな多くの声を聞いていると、障害者の中にも、権利ばかり主張する「悪い障害者」と、わきまえて行動する「良い障害者」がいる、ってことのように思えてきます。
 でも、それは誰にとっての「悪い」と「良い」なのだろう。ちょっと立ち止まって考えてみると、それはどうも多数者、健常者にとっての都合のようにも思えます。

  

 いま振り返れば評価の高い「青い芝の会」の行動も、当時は多くの人にはなかなか理解されませんでした。当時は今以上に「障害者が意見を主張するなんて生意気だ」という批判はとても多かったようです。つまり70年代だって、「闘争」が時代に調和していたわけではなかった。現在少しずつ進んでいる「障害者の自立」、たとえば親から離れて一人暮らしをすることだって、その介護を求めることはワガママと言われた。それを粘り強く交渉し、実践する人たちがいたことによって、「自立」は少しずつ進んできた。

 わきまえていたら、けして変化は起こらない。なんにも良くならない。障害者は家でおとなしくし続けるしかない。権利なんてない。出る釘は打たれる。打たれないためには、もっと高く出るしかない。あるいはたくさんの釘が一緒に頭を高く出すしかない。そんなふうに私は思うのだけれど、さて、みなさんはどう思われます?

雨の朝、ひとつの傘で登校する二人ずれ。姉妹かな。フィリピン (2000年

 注 青い芝の会…脳性麻痺の人たちの親睦会から始まったのち、1966(昭和41)年に組織された神奈川県支部メンバーの積極的な権利運動で知られるようになった。私の連載で触れている「川崎バス闘争」は、車イスの障害者への乗車拒否が発端でした。バス会社の対応に抗議して、青い芝の会メンバーの脳性麻痺者60人と支援者の介助者らが全国から川崎駅前に集まって、停車中の路線バスをジャックしたり、窓ガラスを割るなどの抗議運動を展開したのです。
 このような実力行使が、当時でも、市民の共感を得られたわけではなかった。世間は声を上げ、主張し、実際に実力行使に訴えること対して、日本社会は戸惑うばかりだったというのが実状だった。けれども、そうせざるを得なかった障害者たちの“気分”を想像したときに、私は彼らの行為を全否定することはできない“気分”にどうしてもなるのです。そして、彼らの行動がその後の障害者の権利拡大に大きな影響を与えたのは間違いないのです。
 障害者の権利についての著作の多い立岩真也さん、私が尊敬する社会学者の方です、は、20世紀の日本の偉人のお一人に、青い芝の会神奈川支部のリーダーだった横関晃さんの名前を挙げています。横関さんは若くして夭折されましたけれど、彼の著作『母よ殺すな』は今でも名著として残っています。



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